戦争遺跡に関する虚構と矛盾・・・第3回

はじめに

 前回の記事(https://the-fact-sinsou.hatenablog.com/entry/2019/03/28/071837)において、市民団体が争点としている人吉海軍航空隊基地跡の範囲について、市民団体と錦町が想定している範囲は同様であろうと推測した。

 この件について戦争遺跡に関わっている知人から頂戴した資料を確認してみると、推測のとおりであったという結論となったので、その検証を紹介したい。

 

1.錦町を批判している市民団体による人吉海軍航空隊基地跡に関する資料

  知人から頂戴した資料とは「あさぎり町文化財調査報告書第4集 熊本県球磨郡あさぎり町 陸軍人吉秘匿飛行場跡 木製有蓋掩体壕跡の埋蔵文化財発掘調査」(以下「あさぎり町報告書」という。)である。

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あさぎり町文化財調査報告書第4集

 こちらの資料は錦町を批判している市民団体(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク代表)が書いたものであるので当該市民団体の公式見解と見てよいであろう。

あさぎり町教育委員会関係者によると「あさぎり町報告書」の文責はくまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク代表にあるとのことであった。)

 実際「あとがき」(「あさぎり町報告書」101ページ)には「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク代表」と書いてある。

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あさぎり町報告書101ページ

 こちら「あさぎり町報告書」13ページから18ページにかけて人吉海軍航空隊基地跡に関する記述が見られる。基地の範囲についても書いてある。

 当該箇所を引用してみる。

「本稿では、各施設の歴史的意義や使用目的等から人吉海軍航空隊飛行場跡は「教育隊庁舎兵舎地区跡」と「飛行場地区跡」に分け、第二十二海軍航空廠人吉分工場は「地下工場地区」に、佐世保鎮守府軍需部施設は「資材備蓄地区」として分けて表記するものである。」(「あさぎり町報告書」13ページ。)

 こちらの記述によると4つに区分するとのことである。

1「教育隊庁舎兵舎地区跡」

2「飛行場地区跡」

3「地下工場地区」

4「資材備蓄地区」

 ただし人吉海軍航空隊基地跡に関する地図について当該報告書には引用地図はあるが、市民団体(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク)が独自に作成した地図が見当たらない。従って具体的にどれがどこを示しているのか不明である。

 ただ文章として地名が表記されている。引用する。

1「北側の人吉農芸学院周辺部には「教育隊庁舎兵舎地区跡」がありには(ママ)、隊門のほか練兵場土塁、耐弾式地下発電所(大型水槽1)、防火水槽3、避難兵員・交通壕2他が遺存する。」(「あさぎり町報告書」14ページ)

2「本航空隊施設は二分され県道33号線を挟み南側の新立・由留木周辺部には「飛行場地区」あとがあり、地上には河原石で造作した正門1、格納庫基礎部2、方形水槽4他が遺存、地下には木上加茂神社裏RC壕「地下魚雷調整所」、地下作戦室RC壕、地下無線室RC壕、設営隊壕、兵舎壕、弾薬庫壕、地下格納庫壕、無蓋掩体壕・地下倉庫(未確認)他が遺存する。」(「あさぎり町報告書」14ページ)

3「現在、「地下工場地区」と示される野間・迫・岩城周辺部には、機械工場跡、設営隊兵舎壕、自動車工場壕多数が残されている。」(「あさぎり町報告書」16ページ)

4「現在「資材備蓄地区」と示される白坂・山下周辺部には、地下倉庫壕、地下兵舎壕、地下機械工場壕、地下発動機工場壕、地下自動車工場壕他多数が残されている。」(「あさぎり町報告書」17ページ)

 こちらに基づいて国土地理院地図に情報を書き込んでみる。結果は次のとおりである。

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国土地理院地図に、あさぎり町報告書の情報を記入

 分かりやすくするため名称を便宜的に色分けして表記した。

1「教育隊庁舎兵舎地区跡」

2「飛行場地区跡」

3「地下工場地区」

4「資材備蓄地区」

 

 2.錦町による人吉海軍航空隊基地跡の範囲

 錦町webサイトに掲載されている資料「人吉球磨は秘密基地」に地図が掲載されているので引用したい。

 資料は次のページから引用したものである。

http://www.nishiki-machi.com/docs/2015081700013/

(全4ページを引用する。)

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錦町の基地範囲(1)

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錦町の基地範囲(2)

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錦町の基地範囲(3)

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錦町の基地範囲(4)

 錦町は基地を「航空隊」と「工場と倉庫(=隧道地区)」に2区分している。その上で「航空隊」を「庁舎居住地区」「飛行場地区」に2区分している。また「工場と倉庫(=隧道地区)」を「倉庫地帯」「工場地帯」に2区分している。

 まずは整理しておく。

1「庁舎居住地区」

2「飛行場地区」

「工場地帯」

4「倉庫地帯」

 錦町も基地の範囲を4区分している。

 こちらの情報を国土地理院の地図に書き込んでみる。

 

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国土地理院地図に、錦町の情報を記入

  市民団体(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク)によるものよりも広くなった印象である。

 

3.市民団体と錦町の地図区分はほぼ同じである。

 百聞は一見に如かず、である。次の2枚の地図を見比べてもらいたい。

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市民団体の地図区分

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錦町の地図区分

 市民団体(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク)と錦町の地図区分はほぼ同じと言えるだろう。

 あえて違いを言うならば「教育隊庁舎兵舎地区跡」(市民団体)よりも「庁舎居住地区」(錦町)のほうが広く、「飛行場地区跡」(市民団体)よりも「飛行場地区」(錦町)のほうが広い、というところであろうか。

 同様の地区に複数の名称があると混乱するので整理したい。

1「教育隊庁舎兵舎地区跡」(市民団体)≒「庁舎居住地区」(錦町)

2「飛行場地区跡」(市民団体)≒「飛行場地区」(錦町)

3「地下工場地区」(市民団体)≒「工場地帯」(錦町)

4「資材備蓄地区」(市民団体)≒「倉庫地帯」(錦町)

 なお先後関係を見る。

あさぎり町報告書」は2017年3月の発行である。

「人吉球磨は秘密基地」は2015年10月の発行である。

 そして、市民団体(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク)は「人吉球磨は秘密基地」を助成金事業として使用していることから、当然その中身を知っていると言える。

 従ってあさぎり町報告書」(市民団体)の基地範囲は、「人吉球磨は秘密基地」(錦町)の基地範囲をほぼ踏襲しており、場所によっては錦町よりも狭くしていると結論づけられるだろう。

 

4.余談~「あさぎり町報告書」は検証が杜撰か?

 今回「あさぎり町報告書」を読んでいて「あれ?」と疑問に思うところが多々あったのだが、今回の検証箇所にもあった。

 次の引用をご覧いただきたい。

「現在、「地下工場地区」と示される野間・迫・岩城周辺部には、機械工場跡、設営隊兵舎壕、自動車工場壕多数が残されている。」(「あさぎり町報告書」16ページ)

「現在「資材備蓄地区」と示される白坂・山下周辺部には、地下倉庫壕、地下兵舎壕、地下機械工場壕、地下発動機工場壕、地下自動車工場壕他多数が残されている。」(「あさぎり町報告書」17ページ)

 ご覧のとおり「あさぎり町報告書」では同じものが2つの地区に同時に存在しているのである。

 ただし筆者の調べによると機械工作は基地の随所で行われていたということであるので2つの地区に「機械工場跡=地下機械工場壕」があっても問題なしとしてよいのかもしれない。

 だがあさぎり町報告書」には引用地図において「機械工場跡=地下機械工場壕」を野間・迫・岩城周辺部にあると示しながら、白坂・山下周辺部にあるとされる「機械工場跡=地下機械工場壕」の場所を示す地図を明示していない。

 これでは検証のしようがないし、そもそも記述そのものに信ぴょう性があるのか疑問である。

 また白坂・山下周辺部「自動車工場壕」があったとするのは明らかに間違いであろう。

(追記~なお「あさぎり町報告書」では「地下機械工場壕、地下発動機工場壕、地下自動車工場壕」が「白坂・山下周辺部」に存在するとされているが誤りである。実際は「野間・迫・岩城周辺部」に存在している。)
  また、今回の検証範囲外であるが、あさぎり町報告書」では人吉海軍航空基地の滑走路距離を「滑走路は全長1350m」としているが、人吉海軍航空基地資料館における説明では滑走路の全長は1500mである。

 実際に「滑走路跡」と説明されている場所を現地に行ったついでに実測してみたのだがほぼ1500mとなった。また地図で「滑走路跡」を計測してもほぼ1500mとなる。

 以上は遺跡の素人である筆者が検証したものである。

 ところが、これは筆者の感想であるが、遺跡の専門家であるはずの教育委員会が発行した「あさぎり町報告書」は素人が検証しても判明するレベルの間違いを記載している。従ってあさぎり町報告書」は公的な報告書としては検証が杜撰なのではないだろうか。

 他にもいくつか気になる点が「あさぎり町報告書」にはあったのだが機会があれば検証してみたい。